コウのプロフィールに興味を持っていただき、ありがとうございます!私がどんな人生を歩んできたのか、お話したいと思います。
では、My Storyの始まり始まり・・・
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公務員の父、先生をしていた母との間に一人っ子として生まれました。共働きだったため年少さんの途中から保育園に入りました。昔も保育園にはなかなか入れず、今で言う保活に母は苦労したようです。
保育園での思い出はというと、好き嫌いが多くて泣きながら居残りさせられ給食を食べたり、車酔いが激しくお迎えが車の時には必ず嘔吐してたり、眠くないのに寝なきゃけないお昼寝が苦痛で仕方なかったり・・・・とあまり良い思い出はありません笑。
それでも保育園生活にも徐々に慣れていきました。車酔いは治りませんでしたが・・・
ものすごく良く覚えているエピソードがあります。卒園前は「おとなになったら」というテーマで絵を描かなければなりませんでした。
私は保育園児にして特になりたいものもなく、となりのお友達のまねをして「ほいくえんのせんせい」と絵をかいていました。普通ならケーキ屋さんになりたい!とか美容師さんになりたい!とか夢がりますよね。でも、私はあまり自己主張をする子どもではなかったと思います。
どうしてこんなにも「自分がない子」になったのか?思い当たることがあります。
母はとある教室をしていました。今でいうとフリーランスというのでしょうか。
私はいつも教室に一緒に連れていかれていました。近くに祖父母がいたわけではないので、預け先もなく連れていくしかなかったのでしょう。
教室の間、私は幼心に「母や生徒さんに迷惑をかけてはいけない。」と思っていたので、お絵描きをしたりして「おりこうさん」にしていました。
母にとっては私はおとなしくて、扱いやすい子どもだったと思います。生徒さんから「おりこうさんね」と言われたので「おとなしくしていることが正解」と思っていたのです。
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私は一人っ子だったのでとても大事にされてきました。産前産後の母の育児日記はとても細かく書かれていました。
ミルクをいつ何cc飲んだか、体重・身長と細かすぎるぐらい細かく書いてありました。産まれたときからの写真もたくさんあり、アルバムは数十冊もありました。
大切にされているはずなのに、でもどこかで「私は必要ない子なんじゃないか?」と思っていました。そう思う出来事があったからかもしれません。
何歳の頃か覚えていないのですが・・・私がおそらく、3歳、4歳の頃だと思います。
ある日、母が一人で仕事のために海外出張へ行きました。父も仕事があるため、私は家に帰ることはなく託児所に泊まりで預けられました。
5日間だったのか、1週間だったのかはたまた2週間だったのか・・・何日間預けられていたのかは覚えていませんが、とてつもなく長く感じました。
お友達は毎日パパやママがお迎えに来ます。毎日毎日、帰れないのは私だけ。
「今日はきっと迎えに来る!」
お迎え時間が近づくと、ドアを見つめていました。
でもドアから入ってくるのは、お友達のパパやママ。
違う・・・また違う・・・今度こそ・・・
そんな日が何日も何日も続きました。私捨てられたのかな?もしかして何か悪い事したのかな?何がいけなかったの?もっともっとおりこうさんにならないとなの?小さな私は色々考えていました。
今日はお迎えにくるのかな・・・
毎日毎日お迎え時間になると不安で押しつぶされそうでした。
このことがきっかけかはわかりません。でも、1人になるのは怖い。考えなくても良いこと、気にしなくてもよいことまで考えどんどん不安になるようになっていました。
そして捨てられないように、1人にならないように、「いい子」でいようと思いました。
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私は小さい頃からスイミングスクールに通っていました。見学したその日にやりたい!と言ったのを今でも覚えています。
本当に泳ぐことが大好きでした。練習が厳しいこともありましたがプールに入れば気持ちがすっきりしました。無心で泳げば嫌なことも忘れられていたのかもしれません。
ある日そんな大好きなスイミングにいけなくなってしまいました。足を骨折してしまったんです。しかも2回も。2度の骨折。2回目は反対の足でしたが、ほぼ同じ箇所を骨折しました。
この頃、父と母の関係はあまり良くなく、家の中の雰囲気は暗い感じでした。
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骨折はしていても学校には毎日通っていました。学校は楽しかった記憶があります。そんな時にやってきた転校生のあの子。
彼女は転校してきたばかりでストレスがたまっていたんでしょう。骨折してみんなと同じように活動できない私が嫌がらせの標的になりました。
「なんであんただけ楽してる?」骨折して足が不自由な私に容赦ない攻撃をしてきました。乱暴な彼女にクラスメイトは反論するどころかみんな味方になっていました。
ある日、私の上履きを隠されました。次はリコーダーを隠されました。その次は教科書がゴミ箱に捨ててありました。
彼女にもストレスがあったのかもしれません。だからといって許せるわけもなく。ただ、ただ、彼女との距離を置くことだけを考えていました。
先生に相談しても頼りになりませんでした。私は男子に助けてくれとお願いし、男子と遊んでいました。男子にはめんどうなグループというのがなく、本当に気楽でした。
私はもともと女の子っぽい遊びも、女の子らしい服もあまり好きではありませんでした。レースフリフリとか絶対無理でした。
トミカもいっぱい持っていたし、ラジコンが欲しい、5段変速の自転車が欲しいって思ってましたから笑
あ、でも自分を男の子だとは思ってないですよ。男の子に生まれてくれば良かったとは思ったことはありますけど
ちゃんと?恋愛対象は男子ですから。
この2回の骨折のおかげで、大好きなスイミングを長期間お休みしなくてはいけない、学校でも家の中でも嫌なことばかりでした。
そしてまたまた、衝撃的な事件が・・・
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小学4年生のある日を境に父は家に帰ってこなくなりました。父は優しい人でした。大好きな父がいなくなったことは、ショックすぎてよく覚えていません。
離婚したと母から言われました。両親の離婚・・・説明もなく突然消えた父。いなくなった理由を何も言わない母。私の頭も心もぐちゃぐちゃでした。泣いていたのかも覚えていません。
離婚理由は大人になってから聞きました。父の借金が原因だったようです。
母はとても教育熱心でした。私を「ちゃんとした子」に育てたかったのでしょう。父親がいなくても「ちゃんとした子」母も一生懸命だったと思います。自分が親になった今なら、それも理解できます。
シングルマザーで子どもを育てていくのは大変だったと思うのですが、私は中学受験することになりました。新しいことを勉強できるのは楽しかったし、全然苦じゃなかったんです。
でも受験で嫌な思いをしました。第一希望の学校の集団面接で、「お父さんは?」と聞かれました。忘れかけていた嫌な気持ち。みんなの前で、「母は離婚したので、父はいません」と言いました。屈辱でした。
最悪じゃん…
はずかしい
くやしい
なんで?なんで?
みんなの前で言わなくちゃいけないこと?
当時は離婚なんてまだまだ珍しかったと思います。第一志望の学校は不合格でした。ほかにも数校受けましたが、ぜんぶ不合格・・・
あんなに勉強したのに!
あんなにがんばったのに!
塾の先生も大丈夫って言ってのに。
親の離婚のせいで私は落ちたんだ。
父親がいないからだ。
私は全部母のせいにしました。最低です・・・そして、そんな風に思う自分が嫌いになっていきました。
自己肯定感も下がりまくりでした。自分の全てが嫌いでした。自分のいる環境も嫌いになりました。
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中学受験に失敗した私は、小学校の友達と同じ中学に行きたくないというつまらないプライドで違う学区の中学校へ入学しました。今思うとリセットしたかったのかもしれません。
中学で始まった英語の授業。小学生の頃、英会話教室に通っていたこともあり教科として勉強するのも新鮮でした。
中学1年生の担任は英語の先生でした。授業がとても楽しかったのを覚えています。カーペンターズの歌を使って、わかりやすく文法を説明してくれたり、授業時間があまれば、トップガンやバックトゥザフューチャーなどのハリウッド映画を見せてくれたりしました。
そこで触れた「アメリカ」や「英語」に私はあこがれを抱きました。とにかくアメリカ行きたい!と思っていました。
同級生にアメリカで生まれの子がいたんですが、「20歳になったら、国籍選べるのと彼女が言っていたのがうらやましくてしょうがなかったんです。
彼女は教えてくれました。「アメリカの永住権は抽選だよ」と。抽選!?抽選でアメリカ人になれるの!?
無知な中学生の私はアメリカ人になる!とグリーンカードの資料をどうにかして取り寄せていました。こういう行動力はあるみたいです。
洋楽を聞きいたり、洋画をみたり、SCREENというハリウッドスターの雑誌も読んでいました。妄想はどんどん広がって、アメリカ人と結婚してハーフの子を産むんだ!って本気で思ってました(笑)
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頭の中がUSAな頃またまたショックなことが・・・・
ある日学校から家に帰ると、玄関に男物の靴がありました。なんとそこにいたのは父・・・
突然いなくなった父。母は連絡を取っていた?なんでいる?
パタン・・・
訳が分からずそのままドアを閉めました。そのあとどうしたのか?どう家に戻ったのか?母を問い詰めたのか?全く覚えていません・・・
そんなことがあっても、「おりこうさん」だった私はグレることもなく、超真面目に学校にも部活にも行ってました。グレる勇気もなかったんでしょうね。
ただますます感情を表に出すことが苦手になっていました。
高校、大学では「クールだよね~」とよく言われるようになりました。ぜんぜんうれしくない誉め言葉でした。
金髪にでもなっておけば、もう少し感情表現も上手くなってったかも!?
でもそんな勇気もありませんでした。やっぱり「母に迷惑かけちゃいけない」って思ったんでしょうね。それとも単なる根性なしなのか。
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私には兄弟姉妹がいなかったのと、離婚したことで父がいなくなり、「両親と子どもが2、3人いる家庭」がいつしか理想になっていました。
「幸せな結婚がしたい!」が目的になったのです。早く結婚して若いママになりたい!それが憧れになっていました。
そんな時に出会った、モラ夫。付き合っている頃から違和感はありました。突然不機嫌になるんです。理由はわかりません。話しかけてもだんまり。でも、優しいところもある。男らしいところもある。と半ば自分に言い聞かせてました。本当は優しい人なんだって。
どこかで家を出たいという気持ちも大きかったのもあります。地方出身のモラ夫の地元に行くことを決心してしまいました。
それが悪夢の始まりだとも知らずに・・・・
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付き合っていた頃から、突然不機嫌になるはありましたが、結婚当初はもちろんモラ夫ではなく普通の夫でした。義母からの嫌がらせからも守ってくれました。
ですが、第一子妊娠出産、第二子妊娠出産、マイホーム購入、第三子出産・・・・年月を経ていくごとに、
・無視
・暴言
・暴力
がひどくなりました。なぜ始まるのか理由もわからず、地雷がどこにあるかわかりません。
反論するのも怖いので、「私さえ我慢すればいい。」そう思っていました。
それでもストレスはたまります。女性専用のネットの掲示板をのぞいて不倫・借金・犯罪・お酒に悩む書き込みを見ては「まだマシだ、うちはこんなひどく無い・・・」と気持ちをやり過ごしいていました。
私が母子家庭で育ったこともあり、「子どもには両親が必要。」その思いにすがりつきました。ネットで「モラハラ」という言葉を見つけた時は当てはまることばかりで涙がでてきました。それでも離婚と言う考えにはならず、原因がわかれば対処もできる。なんて考えていたんです。
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モラハラと言う言葉を知って気がつけば10年以上経っていました。原因がわかっていても、もう無理でした。モラハラはひどくなるばかりでした。
今思えば子ども達にも影響が出ていたんだと思います。学校で問題行動を起こしましたし、不登校にもなりました。
私は消えたいとも思っていました。でも、子ども達を置いて死ねない。経済的な不安と父親がいないことで嫌な思いをするのではないか?という不安で離婚には踏み切れなかったんです。
死ぬ勇気も離婚する勇気も当時の私にはありませんでした。それぐらいモラ夫からは気力も奪われていたのかもしれません。
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でも離婚の決心がついたんです。
とうとうモラ夫は子どもの夢も壊す最悪最低な言動をおこしました。今まで我慢していた事も限界になっていました。
「こんな人と我慢して一緒にいても何もいいことはない!!!!!」
思い切って別居に踏み切りました。私自身母子家庭で育って、嫌なこと、寂しいこともありました。でも、夫のモラハラは、子ども達にも私にも悪影響でしかないとようやく気がついたんです。
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別居して精神的に本当に楽になりました。くだらないことでも笑えるようになりました。ビクビク怯えることもなくなりました。
Twitterを始めて驚いたんですがモラ夫に悩んでいる妻達が多い!
なので、このブログを通じて私の経験を伝えられたら、今モラ夫で悩んでいる妻達の助けになるのでは?と思ったんです。
私の経験が少しでもあなたのお役に立てれば嬉しいです。ここまで、長い長い私のプロフィールにお付き合いいただき、ありがとうございました。
モラハラからは逃げるが勝ち!モラ夫なんかにぜーったい負けないぞ!一緒にがんばりましょう!
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