
私はモラ夫との別居を決心するまでに10年もかかってしまいました。
モラハラに悩んでいる人はとっても孤独です。
「男なんてそんなもの」
「我慢が足りないんじゃない」
「うちもそんな感じだよ」
と周りから心ない言葉をかけられたり、
「あんな優しそうな旦那さんが?」
と理解してもらえなかったり。挙げ句の果てには、
「旦那を長男と思え」
「旦那を育てればいいじゃん!」
ですからね。
このツイートが反響ありすぎて、震えました。
「パパの赤ちゃん返り」「夫を長男と思え」とかもう…男子を持つ母として、息子が将来こんな事言われないように自立した人になるよう接して行きたいと思います。
— コウ🍓ドロ沼離婚物語進行中 (@KouLabo8) January 14, 2022
モラ夫のモラハラに悩んで「離婚すればいい」と思っていても、簡単に離婚に踏み切れないものです。
私もそうでした。
別居するチャンスはいくらでもあったのに、自分の気持ちをごまかして先延ばしにしてきました。そのおかげで自分自身だけでなく、大切な子供達も傷つきました。
モラハラ体験をシェアすることは、当時を思い出すのでとても辛いです。でも、多くの妻達にモラ夫はおかしいんだ!
って気づいて欲しいです。
残念ながらモラハラは治りません。
逃げるのが一番です。
私がモラハラという言葉を知って別居するまでに体験したこと感じたことを、赤裸々に公開して行こうと思います。ぜひ最後までしっかり読んでもらえると嬉しいです。
結婚前の違和感
今思えば結婚前にいくつか違和感を感じていたんです。でも当時は気が付きませんでした。
見て見ぬ振りというか、「好きフィルター」が強力だったんだろうと思います。
ある日デートの約束をしていました。待ち合わせ場所でワクワクしながらモラ夫を待っていました。まだモラハラもされていませんから、普通に付き合っているカップルでした。
ところがやってきたモラ夫は、あきらかに機嫌が悪いんです。私がいくら明るく振る舞ってもずっと機嫌が悪かったです。
その日別れ際に私も納得行かなかったので、聞いたと思います。
「私何かした?」
「は?そんなのもわからねえのかよ。」
冷たく言われました。
私はつい「ごめん」と謝ったと思います。その時きっとモラ夫は思ったでしょう。
コイツならコントロールできる。
当時は好きの気持ちが大きかったので、ご機嫌取るようなことをしてしまいました。これが終わりの始まりとも知らずに・・・
入籍
付き合っている間に違和感は感じつつも、頼りになるところもあって結婚を決意してしまいました。モラ夫あるあるなんですが男らしいところがあるんですよね。
今思えば、モラ夫の母=モラ母の方がモラハラ度が強烈すぎて、モラ夫のモラハラが見えなかったんじゃないかと思っています。
付き合い始めた頃、1年後には地元に帰ると言っていたモラ夫。それまで付き合っていたらその先を考えようと、付き合い始めました。最初から結婚をちらつかせていたんですよね。
私はその先はあまり考えもせず付き合い始めてしまいました。付き合っていることは多少の違和感がありつつも、1年がたち入籍することになりました。
結婚生活
私自身が母子家庭で育ったので、父親がいなくて嫌な思いもしました。今ほど離婚が当たり前でもなかったですからね。
なので結婚したら、離婚はしたくないと思っていました。
子供達には私のように嫌な思いをして欲しくない。
子供には父親が必要。
と自分経験から信じ込んでいました。
だからモラハラにも耐えてしまったのかもしれません。両親揃った家庭を失いたくない。私みたいに辛い思いをしてほしくないと。
さらにモラ夫の一言で私は支配されていきました。
上の子が3歳、下の子が1歳の頃です。何がきっかけか覚えていませんが喧嘩になりました。そこでモラ夫が放った言葉。いまでもあの時の状況を鮮明に覚えています。
子供も金も全部置いて出ていけ
頼れる実家もない、お金もない私には強烈すぎる一言でした。
人生の中で大人の男性に怒鳴られたこともありませんでした。モラ夫の大声と冷たい目に絶望しかありませんでした。
出て行こうともしたんです。でも、子供達を置いてなんて出ていけない。大事なこの子達を見放すなんて、できない・・・できない・・・・荷物をまとめて家を出ようとしましたが、体が動きません。私はボロボロ泣いていました。
どれくらい時間がたったでしょうか。動けない私は部屋の片隅で泣きながら、起き上がれず横たわっていました。そして行き着いた答えが、
「夫の言うことを聞くしかない」
「私が謝ればいいんだ」
でした。
この日は、私の心がモラ夫に支配された日でした。もうモラ夫には逆らえない・・・・逆らえば子供を置いていかなくてはいけない・・・そう思ってしまったのです。
反論すればいいじゃない?と思うことでしょう。でも大人の男性に家庭という密室で怒鳴られる恐怖。逃げ場がないことをわかっていて出来もしないだろうと、暴言を吐くんです。心が折れると人は反論ができないんです。
モラ夫の奴隷
「何もかも置いて出ていけ」
と言われてから、私はさらにモラ夫の機嫌をうかがうようになりました。
そのストレスで私は子供達にもきつく当たることもありました。最低ですよね。
当時モラ夫が撮ったビデオには上の子が「ママきらい」と言ってるのがありました。でも撮ってるモラ夫は笑って
「きらいよねー」って同調してました。私は自分がダメな母親だと思うようになりました。
モラ夫の機嫌を損ねると何が起きるかわかりません。それでも私もどうしても嫌なことがあれば反論していました。
当時1人で3歳と1歳の子育て。今で言うワンオペ育児です。私は毎日疲れ切っていました。寝れる時は少しでも寝ていたい。でもモラ夫はセックスできないと機嫌が悪いんです。
ある日、「断るんじゃねー!」と言いながら壁を殴り穴を開けました。子供達ももちろん見ていました。キレる時は必ずセックスを断った時でした。
ちなみに壁に穴開けたのは賃貸マンション。退去の時に説明したのは私。「家具がぶつかっちゃって・・・」バレバレの言い訳をしました。不動産屋さんわかっていたでしょうね。なんで私が言い訳しなくちゃいけないんだかですよね。
こうしてキレるとやばいヤツと言うのを植え付けられていったんです。
日常生活は、モラ夫を怒らせないように、反論しないように最新の注意を払っていました。こうして私はモラ夫の奴隷となっていくのでした。
モラハラと知った日
壁に穴あけた頃まで、私はモラハラと言う言葉を知りませんでした。でも、とにかく結婚生活が辛い。夫とうまくいかないと悩んでいました。当時はどうやったら、結婚生活がうまくいくか?ばかり考えていて、別居や離婚は全く考えていませんでした。
タイムマシーンがあれば、今すぐ当時の私に会いに行って、すぐ別居しなさい!って言いますけどね。
とにかく結婚生活が辛かった私は、ある日ネットで夫の言動について調べたんです。そこで見つけた言葉がそう、
モラハラ・・・
でした。とにかくあてはまることばかり。だから理不尽な態度取るんだ。
病名がわかったようで安心した気がします。安心からか、涙が止まりませんでした。結婚生活がつらいのも、正体がわかれば対処する方法もあるだろうと思いました。
でも、それがさらなる悲劇の始まりでした。
モラ夫物にあたる
モラハラと正体がわかったものの、モラハラが治るどころかひどくなるばかりです。
モラ夫は自分のご機嫌を自分で取れません。機嫌が悪いと、とにかく物に当たりました。
ゴミ箱を蹴る
ものを投げる
犬のゲージを蹴る
手がつけられません。
あまりに大暴れをするので、一度、子供と逃げたこともあります。しばらくして戻ると、何事もなかったかのように
テレビを見ていました。
「ごめん」の一言もありません。それでも機嫌が治っているなら安心なので、そのままにしてました。物に当たるのも立派なDVなんですよね。当時はそんなことも気が付きませんでした。
あまりに理不尽なモラ夫の態度を、モラ夫の親族に相談したこともあります。
でも返ってきた言葉は、
・男なんてそんなもんよ
・子供も大きくなればそんなの忘れるから
なんの助けにもなりませんでした。
私はさらに解決方法があるんじゃないかと、なんとかしよう、なんとかしようとしていたんです。とにかく両親揃った家庭を守りたかったんです。
モラ夫の暴力
モラ夫は暴力もふるいました。
ただ、暴力と言っても、怪我になるほどではないし、日常的ではなかったんです。
殴られた時のエピソードはこちらです。良かったら読んでみてください。
私が反論した時に、
「てめぇ何様のつもりだ!」
「なんだその目は!」
と言いながら平手打ち。髪をひっぱる、突き飛ばす、物を顔に向けて投げてきました。
立派なDVですよね。ニュースになってもおかしくないぐらいです。
そして最後にモラ夫はこう言います。
「お前が俺を怒らせるんだ」
私が悪いんだ・・・
私は言うことを聞こう・・・・
どんどん自分を押さえ込んで行きました。
殴られたこともモラ夫の親族に相談したこともあります。でも、返ってきた言葉は
「私も殴られてる」
「そんなもんよ」
笑いながらいわれました。
私は記憶の彼方にいる父にも、ずっと一緒に暮らしてきた母にも叩かれたことはありません。中学時代は連帯責任だ!と言って先生がビンタするような時代でした。でもその時の叩かれると、モラ夫の暴力は全く違います。モラ夫の暴力は恐怖なんです。殺されるんじゃないかという恐怖があるんです。
モラ夫の親族に相談した時、モラ夫に言おうか?とも言われましたが、告げ口したことがわかったら、モラ夫にどんな仕返しをされるか怖くて言わなくて良いといってしいまいました。
もう恐怖で支配されていくばかりです。
子供への影響
モラ夫は子供の扱いは上手でした。ただ、モラ夫の思い通りに遊びます。だから子供を容赦無く泣かしたりしていました。楽しく遊んでいたかと思えば、子供が泣いているということがよくありました。
小学校3、4年生ぐらいにもなれば、子供も自分の意見を言うようになります。
それをモラ夫は脅しと恫喝で一掃しました。反論してきた子供に向かって
「てめぇ、俺に歯向かうんか!」
大声で怒鳴りました。
家の中の雰囲気は最悪です。
ビクビクする母。
暴れる父。
子供たちのストレスも半端なかったと思います。両親揃った家庭なんか捨てて、子供たちを連れて出ていくべきでした。この頃のことは謝っても謝っても謝りきれません。勇気が持てなかった自分に情けなくなります。
こんな荒んだ家庭で育つ子供が健全に育つわけがありません。子供達はいつしか大人になることに夢を持たなくなりました。
それでも子供達には色々経験して欲しい。外でいろんな経験が出来るよう私が一生懸命いろんな体験をさせてあげようとしても、モラ夫がことごとく潰していくんです。
でも反論すればモラ夫は暴れる。最悪また殴られる。私もモラ夫の暴力や暴言が怖くて言いなりになっていました。
家庭でのことがストレスだったと思います。子供達は学校でもキレていました。家を出ているのに学校にきていません
と言うことも何回もありました。お友達とのトラブルも絶えませんでした。
ある日、学校に行こうとしない上の子をモラ夫は殴りました。家出をしても家に入れるなと言われました。上の子は心が完全に壊れました。
下の子も学校に行けない時、モラ夫は殴ろうとしました。
下の子までダメになる・・・・
私は必死に止めました。
それを見た上の子は、「なんで自分だけ守ってくれないんだ」とどんどん病んでいきました。私もダメな母親だと自分を責めました。離婚する勇気もない。私がいなくなればいいんじゃないかとも思いました。
子供の方がよっぽど辛かったと思います。でも私も判断する力がなかったんだと思います。離婚する決断ができなかったんです。
それはやっぱり経済的な不安が大きかったかもしれません。頼れる実家もありません。子供を抱えて私一人でやっていけるのか。
モラハラといっても日常ではない。お金も自由に使える。それなりに裕福な暮らしでした。生活していくにはやはりお金は必要です。
私さえ我慢すればいい。
そう言い聞かせて、結婚生活をつづけました。ときにはカウンセリングにもいきました。どうしたら夫婦関係がうまくいかというカウンセリング。今思えばそんなの無駄だったんですけどね。
そんな綱渡り状態の毎日。コップの水はすでに溢れそうでした・・・
ようやく別居を決心!
なんとか自分の気持ちをごまかしやってきましたが、とうとう私は別居を決心しました!
最大の理由はやはり子供です!
子供がある夢を叶えたいとモラ夫に相談しました。それにはお金がかかります。
子供にはOKを出しておきながら、私には金はどうするんだ、勝手に進めるなら無条件で離婚すると誓約書を書け!と言われました。
この時はなぜか謝るとか、いうことを聞くとかではなく、何かが私のなかでプツンと切れたんです。きっとコップの水があふれたんだと思います。
一見子供を大切にしているようなふりをしているモラ夫だけど、この人は子供のことなんてなにも考えていない。そう確信しました。
夢を壊された子供は泣いていました。なんでいつもこうなの・・・
一番下の子にも変化が出てきました。妙に明るくモラ夫に接していました。モラ夫のご機嫌を取るように、わざと明るくモラ夫に接するんです。子供にはニコニコのモラ夫。でも振り返れば、鬼のように私と上の子を睨みつけてくる。
下の子もダメになる。こんな小さい心にこんな思いさせたらダメだ。
同じ過ちをおかしたらダメだ。そう思いました。やっと、やっと気がついたんです。もう逃げなきゃダメだって。別居するしかない。離婚するしかないとやっと気がついた瞬間でした。
新居に引っ越したばかりでしたが、私にはこんな見せかけだけの家なんていらない。そう思いました。別居への決心がようやくできたんです。モラハラという言葉を知ってから10年が経ってしまいました。
ようやく別居の決心ができました!次の記事ではどうやって部屋を探し、別居完了したかを告白します。モラ夫から逃げたいあなたへ。ぜひ次の記事も忘れずに読んでみてください。
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